序・最初の人間
初めにお創りになった人間を、神は祝福してアダムという名をおつけになりました。彼は最初の男性でした。次に神はアダムにふさわしい助け手としてエバという女性をお創りになりました。彼らは神が備えてくださったエデンの園で生活し、この世界を管理する仕事を与えられていました。
そこには人間が幸福で生きがいのある生活を送ることができる基本的な条件がすべて整っていました。人間をお創りになった神は、人間の性質を完全に知っておいでになったので、人間にほんとうの喜びや満足を与えるすべてのものを備えて下さったのです。
創世記1章には、神がこの天地を創造なさったことが記されていますが、神は造られた世界と人間をも含めた被造物のすべてを見て次のように言われました。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」(創世記1:31)
神様がご覧になっても、それは極めてよいと思われる世界であったのです。
ところが、現在の私たちが生きているこの世界は多くの問題をかかえ、人間の心は豊かさを失い生活は貧富の格差が広がっています。自然界も放射能など様々な汚染物質によって破壊されています。なぜ、このような問題が生まれてきてしまったのでしょうか。聖書はこのような状態になった原因を説明しています。

1 エデンの園
神は、最初の人間としてアダムとエバを創造し、彼らをエデンの園に住まわせられました。エデンの園はについて、創世記には次のように描写されています。
「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。」
天文学の学びをしている方々は、他の星に比べて、この地球が如何に素晴らしいいのちの営みをしていくのに最適なところであるかということを報告しています。他の星と比較しなくても、この地球上の砂漠のようなところと比較してみても「園」というところは、とても住みやすく、あらゆるいのちの営みがそこには見受けられるようなところであったに違いありません。
残念ながら後になって、アダムとエバはエデンの園から追放されてしまいましたし、罪ある人間はそこに入ることが出来ない世界でしたから、この地球上のこの場所というようにして「エデンの園」を特定することは出来ません。しかし、そこには何の罪もない、住むのに心地よいところであったに違いありません。
自然は神がお創りになったものですから、それ自体が神の栄光を現わし、神の御名を讃えるものでした。昔アブラハムは天の星をながめて、神の全能を信じました。一枚の木の葉でも、一輪の花でも、神の無限の知恵と力をあらわしています。アダムとエバは自然について学び、創造者である神をより深く理解することが出来ました。また、直接神と交わり、神と共に歩むことによって、彼らの心は感謝と平安に満たされ、愛があふれるような日々を送ることがゆるされていたのです。
2 エデンの園での役割と約束
神は、アダムとエバをエデンの園に住まわせてくださり、彼らに大切な役割を委ねておられることが分かります。創世記1章28~29節には次のように記されています。
「神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。」
これは、神が人類に与えてくださった「文化命令」と言われるものです。神のかたちに創られた人間が、神の御心に従って与えられた世を治める責任を果たすようにという命令です。この時には人間のうちには罪が入っていませんでしたから、自分が神のようになって他のものを支配してやろうというような思いを持つことはなかったことでしょう。けれども、神との関係が損なわれてしまうと、人間は他の被造物を破壊したり、偶像を作ってこれを崇めるようになったり、人のものを盗んだり、殺したり、むさぼったりするようなことが起こってきてしまいます。
さらに、創世記2章15~17節には次のように記されています。
「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」」
ここには、「耕すこと」と「守ること」が記されています。「耕す」と言われているのは「アバド」という言葉で、畑の世話をするという感じの言葉です。イエス様は、十字架に架かられる少し前に弟子たちの足を洗われましたが、あのように仕えるという心を持った支配なのです。人は神様によって与えられたこの自然界を利用し、活用してよいのですが、これを保全・管理していくことが求められているのです。例えば、農業ということで言えば、水田を作るだけでなく、川などから効率よく水を引いてきたり、川の反乱が起こらないように治山治水工事をしたり、作物を植える場合にも、連作障害が起こらないように作物を作ったりなど、様々な工夫をして知恵を働かせていくことが求められたことでしょう。
「我田引水」という言葉がありますが、自分さえよければというようなやり方で支配したり、搾取したりするようなことではなく、この自然界全体のことを考えてあくまでも神の御心に従ってこの地を治め・管理していくことが求められたのです。

3 誘惑
創世記3章に、このような人間に起こった誘惑の記事がでています。1節から6節までです。
「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
善悪を知る木は、神に対する服従のテストでした。また善の知識は人間に豊かに提供されていたのですが、悪を知ること、悪を経験することは人間を不幸におとしいれるので、知らされていなかったのです。罪とその結果である苦しみ、悩み、失望、悲しみ、死というような経験は人間から遠ざけられていました。これは人間に対する神の愛の配慮です。神は人間の完全な幸福を願い、それを得ることができる道を示しておられました。
誘惑者である悪魔は「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」と、神の指示に対して不信の気持ちを起こさせるような言葉で近づいてきました。
神の愛は神のお創りになった自然界にも、聖書にも表されています。太陽と雨と新鮮な空気は、美しい自然をつくり、生物の必要を満たし、幸福と喜びを与えます。「ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。」(詩編145篇15、16節)と詩編の記者は書きました。
マタイによる福音書には「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイによる福音書5章45節)と言われています。
また「二羽の雀が一アサリオン(ローマの貨幣、現在の300円ぐらいにあたる)二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイによる福音書10章29~31節)とあり、神の愛に満ちた配盧は全宇宙に及んでいるのです。このような神の愛とその知恵を疑わせようとするのは、悪魔が人間を誘惑する手段の一つです。
エバが善悪を知る木について、「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」と答えると、悪魔は、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」と言いました。
悪魔は、善悪を知る木の実を食べるなら、目が開かれて神のようになれるとエバをそそのかすのです。神の命令に従うか、神と独立して行動するかということは、いつも誘惑の根本にあります。しかし、実際のところ人間は神を離れては生きていくことが出来ないのです。

4 神に背いた人間
人間は善悪の知識の木を食べてはならないとは何を意味していたのでしょうか。それは、一つには、神が私の神であって、私たちの上に主権をもっていらっしゃるということです。人間は神を私の神として生きることが求められています。神に従うことが求められているのです。そして二つ目には、神は人間に自由な意思を与えて下さいましたが、自由には責任が伴うということです。神が人間を創造なさったとき、人間をロボットや操り人形のようにではなく、人格を持ち自由な意思を持つ者としてお造りになったのです。そしてその自由な意思をもって神に従って生きることを願っておられるのです。
私たちはなぜ父母を敬わなければならないのか。それは神が「あなたの父母を敬え」とお命じになったからです。なぜ人を殺してはいけないのか。それは神が「殺してはならない」とお命じになったからです。なぜ姦淫をしてはいけないのか。それは神が「姦淫してはならない」とお命じになったからです。・・・・人間における基本的な善悪は、神がお定めになるもので、これを人間が論じて勝手に変えてはいけません。それは自分を神とする思い上がりです。善悪の知識の木から取って食べることは、「私には神は必要がない。」「私が私の神なのだ」という神に対する反逆を意味したのです。
「(神がお命じになった言葉に背いたならかならず死ぬ」と言われましたが、これを食べた時に、アダムもエバも倒れて死んでしまった。とは書いてありません。すぐに肉体の死を迎えたわけではありませんが、霊魂は死んでしまったのです。彼らの中には罪とともに死が入ったのです。聖書には、「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)と言われています。神の前に罪を犯す者には必ず死が同居することになります。罪を犯しても死なないということはありません。人類の中ですべての人がやがて死を迎えているのは、彼らがみな神の前に罪を犯しているからです。聖書において「死」とは、神との断絶です。この世界のあらゆるものに命を与えておられるのは神ですから、「いのち」とは神との交わりを意味しています。
アダムとエバは、神に背いて罪を犯したとき、神との正常な交わりを持つことが出来なくなってしまい、彼らの霊魂は死に、やがて肉体の死をも迎える者となってしまったのです。私たちは「死」というと肉体の死を思い浮かべることが多いと思いますが、実をいうと私たちの本体は目に見えない霊魂であり、霊魂が肉体に宿っているのです。そして肉体の死を迎えた時、人間の霊魂は肉体から分離するのです。
5 罪の結果
アダムとエバが犯した罪は、いろいろな影響を与えました。何よりも大きな変化は、霊魂が神との断絶のために死んでしまったことです。罪を犯したために神との関係が損なわれてしまったことです。
二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
人間は悪いことをすると、その相手に知られないように隠したり、隠れて生活したりするものですが、罪を犯した途端、人間は神から隠れて暮らすようになってしまったのです。心の中にやどっていた平和と愛は薄れて、罪の意識と未来への不安、心の空虚さを感じるようになりました。
しかも彼らは、自分自身の罪を正直に認めることが出来ず、神から問われたとき、アダムは、罪を犯したことをエバのせいにして責任転嫁をしていますし、エバは蛇が誘惑したからだと言って責任転嫁をしています。罪を犯した人間は、神様のもとから隠れようとするとともに、自分の罪を正直に認めることが難しくなってしまっているのです。人間は、エデンの園から追放され、その子孫である人類も罪をもって生まれてくることになりました。ダビデが、「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。」(詩編51:7)と言っているとおりです。この被造物である世界全体が罪に汚染されてしまい、今までは苦しみではなかった仕事や労働も、苦痛や疲労をともなうようになりました。

6 回復の約束
エデンの園で神は、死に定められた人間が、再び希望を持つことができることをお告げになりました。アダムとエバは絶望状態に置かれたのではありませんでした。ここにも神の深い愛を見ることができます。放蕩息子を思いやって心をいためる父親のように、神は、神を無視して、神から離れていった人間をなお愛し、救いの道に導こうとされました。
イスラエルに対して与えられた次の聖書の言葉は、死に定められた人間に対する神のみ心をよく表しています。
「エフライムよ、どうして、あなたを捨てることができようか。イスラエルよ、どうしてあなたを渡すことができようか。どうしてあなたをアデマのようにすることができようか。どうしてあなたをゼポイムのように扱うことができようか。わたしの心は、わたしのうちに変り、わたしのあわれみは、ことごとくもえ起っている」(ホセア書11章8節)。
エフライムとイスラエルはいずれも神の民を表し、アデマとゼポイムは昔神によって滅ぼされた町です。「主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」(エレミヤ書81章8節)。
神が人間を再びもとの状態に回復して下さる救いについて、自然界もそのことを語っています。木の葉は枯れて落ちても、また新しい葉が出てきます。花はしぼんでも、神はまた新しい花を備えて下さるように、罪に汚されたこの世界も、死に定められた人間も、再び回復の道があることを示しています。そこに神の招きがあり人間の希望があるのです。

第8章 神に背いた人間 理解のために
1)神によって造られた人間、そして作られた世界について、神様は最初どのように評価しておられましたか。
2)聖書は、この世界に罪や悪がはびこっている根源的な原因について、どのように教えていますか。
3)人間は善悪の知識の木を食べてはならないとは何を意味していたのでしょうか。
4)人間が罪を犯した結果、もたらされたものは何ですか。
